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2008年01月 アーカイブ

2008年01月17日

アイルトン・セナ

フルネームはアイルトン・セナ・ダ・シルバ。1960年3月21日生まれ1994年5月1日に死去。ブラジル出身のレーシングドライバー。1988年、1990年、1991年と3度のF1ワールド・チャンピオンになっている。1994年のサンマリノグランプリのレース中に事故死。日本では音速の貴公子の通称で知られている。祖国ブラジルでは、ペレ、ジーコに並んで最も尊敬されるスポーツ選手の1人である。
裕福な家の長男として生まれ、4歳のときからレーシングカートに乗っていた。父親の豊富な資金とインフラに恵まれ幼い頃からドライビングテクニックを磨いて行った。13歳からレースに参戦し、1977年に南アメリカのカート選手権で優勝し、翌年ジャパンカートグランプリにて4位入賞を果たした。1981年ヨーロッパに渡り、イギリスのレースに参戦し、一時ブラジルに帰国するも戻り1983年にはイギリスF3で優勝し、1984年からF1に参戦する。マクラーレンに移籍した1988年にアランプロストとコンビを組み、初のF1ワールドチャンピオンに輝く。翌年は6勝あげたもののリタイアが多く、チャンピオンはアランプロストに譲る事になる。しかし、1990、1991年と2年連続でワールドチャンピオンを獲得。その後1993年からマクラーレンのエンジンを担当していたホンダがF1での活動を休止、アランプロストが1993年のシーズンを持って引退する。1994年にウィリアムズ・ルノーへ移籍する。しかし、第1戦、第2戦ともリタイアし、第3戦サンマリノグランプリ7週目のコーナータンブレロにてコントロールを失い、時速200キロを超える速度でコンクリートウォールにマシンは大破、セナは帰らぬ人となった。

アラン・プロスト

フルネームはアラン・マリー・パスカル・プロスト。1955年2月24日フランス生まれ。1985年・1986年・1989年・1993年と4度のドライバーズチャンピオンの実績を持つ。1999年国際モータースポーツ殿堂入りしている。F1グランプリ51勝は2001年にミハエルシューマッハ破るまで歴代最高で、現在までフランス人唯一のドライバーズチャンピオン。キャリアの後半において、スムーズな追い抜きと安定したドライビングを行い、レース戦略や展開把握が理論的で沈着冷静なことからプロフェッサーと呼ばれた。レース人生の中で、唯一自腹を切ったのは初めてれレースに参加するためにカートを買ったときだけだという。1980年にマクラーレンからF1デビューし、デビュー戦にていきなり6位入賞を果たす。マクラーレンの車体への不安から1981年にルノーに移籍するが、1984年には再びマクラーレンに復帰。1984年は0.5と言う僅差で2位に終わるが、1985年、1986年と2年連続でチャンピオンを獲得。1987年には最多勝記録を更新。1988年にアイルトンセナがマクラーレンに移籍する事でF1史上最強とも言われるコンビを組む事になるが、徐々にセナとの確執が深まる。1989年には3度目のワールドチャンピオンを獲得。1990年フェラーリに移籍。しかし1991年フェラーリはレギュレーションの改正に失敗しプロストはシーズン途中でチームを離脱、1992年も丸一年F1に参戦しなかった。1993年はウィリアムズ・ルノーのシート獲得に4度目のチャンピオンを獲得し、そして引退した。F1ドライバー引退後、ルノーやマクラーレンのアドバイザーを経て、1997年リジェを買収しチームオーナーとなる。1998年はプジョーとともにオールフレンチのチームで優勝を目指すが、振るわず2002年にチームは破産してしまった。

アルベルト・アスカリ

1918年7月13日-1955年5月26日イタリア生まれ。
フェラーリドライバーとして初のワールドチャンピオンで、1952年と1953年の2回ワールドチャンピオンになっている。父もレーサーだが、1925年に事故死している。1929年に11歳のときに、二輪の草レースで優勝ししばらく二輪に没頭していたが、1940年にエンツォフェラーリに請われミッレミリアに出場する。戦争による中断の後、1949年に再びフェラーリ入りし2勝をあげる。1950年にF1選手権が始まると、第2戦から参戦しシーズンを5位で終え、翌年も2勝あげ2位で終える。1952年は圧倒的な強さを見せ、7戦中6勝。5度のポールトゥーウィンを達成した。続く1953年も圧勝し、連覇。1954年はフェラーリを離れ、ランチアと契約するもののマシンの出来が悪く、チームのマシンに乗ったの最終戦のみ。結局完走もなしで1年も棒に振った形で終える。翌年1955年モナコGPでクラッシュ、海に投げ出されるが、奇跡的に生還したものの、モンツァサーキットで事故からの回復具合を確かめようとマシンに乗ったところ2週目に突如急ブレーキを踏みコースアウト。マシンから投げ出されたアスカリは病院への搬送途中に死去してしまった。

エマーソン・フィッティパルディ

1946年12月12日ブラジル出身。
F1現役時代は太いモミアゲが特徴的であった。イギリスのジム・ラッセル・レーシングスクールを経て1969年にフォーミュラフォードに参戦。ヨーロッパのレースで頭角を現し、1970年にはロータスのF2チームにはいる。シーズン途中でロータスF1チームのサードドライバーになり、ヨッヘン・リントの事故死とジョン・マイルスの引退が重なり、No.1ドライバーとなるとアメリカGPでいきなり優勝した。初のフル参戦となった1971年は6位で終わるものの、翌72年はマシンの仕上がりがよく、当時最年少の25歳273日でワールドチャンピオンに輝く。この最年少記録はアロンソが破るまで、33年間維持された大記録であった。1973年は3勝をあげるものの、シーズン途中で登場したロータス72Eに悩まされ、チャンピオンはならなかった。1974年はマクラーレンに移籍し、2度目のワールドチャンピオンを獲得。これを記念し、ブラジルでは切手が発売されるなど祖国の英雄となった。1975年もマクラーレン乗ったが、ニキラウダに競り負け2位に終わる。その後、自らが設立し、実兄が指揮をとるコパスカー・フィッティパルディから参戦し、多くの入賞を果たすものの、マシンの力が弱く優勝には今一歩届かない状態が続き、1980年にF1から引退した。引退後もCARTやインディ500などの50歳近くまでドライバーとして活躍したが、1996年の事故以来引退した。

キミ・ライコネン

1979年10月17日フィンランド出身。5歳から兄のお下がりであるモトクロスに乗り始め、8歳から兄と共にカートを始める。12歳から本格的なレースに参加し、数々のカートのタイトルを獲得していった。2001年にザウパーからF1デビュー。F3を経ていない経歴などに周囲は不安を漏らしていたが、開幕戦でいきなり6位入賞を果たした。その後も入賞を重ね新人とは思えない安定した走りを見せ、9ポイント獲得。ドライバーズランキングで10位につけた。2002年は同じフィンランド出身のミカ・ハッキネンの後任としてマクラーレンに移籍。2004年に初勝利を飾ると、2005年は7勝をあげ、アロンソとチャンピオン争いを繰り広げるもののわずかにアロンソには及ばず2位に終わった。2007年はフェラーリに移籍。初のドライバーズタイトル獲得となった。

ジェームス・ハント

1947年8月29日-1993年6月15日イギリス出身。
F3時代は壊し屋といわれるほど荒い運転をしていた。F1にデビューしてからはそのあだ名がウソのような走りを見せ、1975年に初優勝。これは当時所属していたヘスケスチーム唯一の勝利である。1976年にマクラーレンに移籍すると、ニキラウダが炎上事故で欠場している間にポイントを詰め、最終戦で逆転しワールドチャンピオンとなった。翌年も3勝をあげたが、ニキラウダにタイトルを奪還される。1978年はマシンの開発が遅れて低迷し、1998年はウルフに移籍したが能力の低いマシンに失望し、シーズン途中で引退表明した。1976年にカナダでゲストとして参加したレースで、地元選手として出場したジャックヴィルヌーヴに打ち負かされた事があり、そのときマクラーレンにジャックの獲得を進言した。1993年に自宅で心臓発作のため死去。

ジェンソン・バトン

1980年1月19日イギリス出身。8歳からカートをはじめて1991年にはイギリス・カデット・カート選手権では同選手権の34戦を全勝しタイトルを獲得。1998年に四輪にステップアップ。フォーミュラフォードで初年度ながら9勝をあげてタイトルを獲得。翌年はイギリスF3に参戦し、ルーキーながらも3位に食い込む。その年の9月マクラーレンのテストに参加し、初めてF1カーを運転した。ちなみにこの頃はまだイギリスにおける運転免許は無く、サーキットまでは父親が運転していたらしい。
2000年ウィリアムズのレギュラーシート獲得。デビュー2戦目で入賞し、ドイツGPでも入賞するなど12ポイントを獲得し、シーズン8位に入る。2001年はベネトンへレンタルを移籍をするものの戦闘力の低いマシンで入賞1回に留まる。2002年はベネトンを買収したルノーのフルワークスチームとなり、生まれ変わったチームで年間14ポイントを獲得するも初の表彰台には届かなかった。2003年BARに移籍し、6回入賞するものの、マシンは戦闘力不足といえた。2004年のBARのマシンは高い戦闘力を持ち、ドライバーズポイントで3位、コンストラクターズポイントで2位となるものの、今一歩優勝には手が届かない。2005年は前年と打って変わり不調となりその年末にホンダがBARを買収する事が発表された。
2006年はホンダで、バリチェロをチームメイトとして迎える。その年第13戦、バトンはデビューから113戦目にして初優勝をとげ、シーズンを通し6位で終えた。2007年もホンダに所属したが、1ポイントあげるのはやっとの状況で不調に終わっている。

ジム・クラーク

1936年3月4日-1968年4月7日スコットランド出身。
F1史上、最も優れたドライバーの1人に数えられている。農家の末っ子に生まれ、趣味で参加した草レースで才能を見出され1960年にロータスからF1デビュー。1962年にはロータス25を駆り、6回のポールポジション、3回の優勝をあげチャンピオンを争い、1963年は7勝、モナコGP以外は表彰台という強さを見せてチャンピオンとなる。ロータスも初のコンストラクターズタイトルを獲得した。1964年はロータス33の信頼性が低く、リタイアを繰り返すもののチャンピオンを争う。1965年はロータスは圧倒的な強さを見せ、開幕戦から第7戦まで優勝しチャンピオンを獲得、インディ500でもクラークは優勝した。1966年排気量が3000ccとなった年のロータスは1勝に留まるが、1967年はフォードコスワースを積んだマシンで4勝。通算勝利数を24勝に伸ばす。翌年、開幕戦で勝利を挙げ当時の最多勝利数を更新した。この年はチャンピオンの最有力候補と目されていたが、第2戦までのインターバル中に参加したF2レースで事故死してしまった。

ジャッキー・スチュワート

1939年6月11日スコットランド生まれ。
F1ワールドチャンピオンを3回獲得した。父はジャガーのガレージのオーナー、兄はジャガーのレーサーであり、モータースポーツに取り組みやすい環境であった。クーパーのF2で活躍し、当時トップチームの1つであったBRMでF1デビュー。BRMでデビュー2戦目で3位、8戦目で優勝を果たす。1968年にマトラへ移籍、フランス車での初勝利を飾る、翌年は8戦中5勝をあげ、初のチャンピオンとなった。1971年も再び圧勝し、2度目のチャンピオン。1972年はフィッティパルディに敗れたが1973年に3度目のチャンピオン獲得。当時、レース中のドライバーの事故死が相次いでおり、この年で引退を決めた。引退後は、フォードのコンサルタントとして活動すると共に、レースの安全性を語るスポークスマンとして活動した。

ジャック・ヴィルヌーヴ

1971年4月9日カナダ出身。1997年のワールドチャンピオン。
父はF1レーサーであったジル・ヴィルヌーヴ。7歳の時に父と共にヨーロッパに渡り、以降はヨーロッパに住んでいる。15歳のときレーシングスクールに入ると、その事が父ジルの活躍したフェラーリの地元イタリアにも知れ渡り。ツーリングカーレースに出場する機会を得る。父の名声もあり、スポンサー探しに苦労はなかったが、逆のそれがプレッシャーとなり思うような成績をあげられなかった。デビューご3年目からは結果を出し、1995年にインディ500、CARTを制した。1996年ウィリアムズ・ルノーからF1デビュー。デビュー戦でポールポジションを達成し、決勝も2位で終える新人らしからぬ成績を収める。その後シーズン4勝をあげ、チャンピオン争いにまで食い込む活躍を見せたことで、父の名を超えたトップドライバーとなる。翌年はウィリアムズ・ルノーのエースとして、7勝をあげ、父も成し遂げられなかったワールドチャンピオンとなる。1998年はルノーが撤退した事でウィリアムズは低迷する。1999年、マネージャーのポロックがティレルを買収しBARを設立するも、新参チームにありがちにマシンが安定せず開幕戦以降11戦連続リタイアとなる。2004年はルノー、2005年はザウバーに移籍するが思うような結果は出せず、2006年でF1からは引退した。

ジャック・ブラバム

1926年4月2日オーストラリア出身。1959年、1960年、1966年と3度チャンピオンになっている。F1史上唯一、自らが設立したチームでチャンピオンとなった。
オーストラリアからヨーロッパに渡り、メカニックから身を立てた。1955年のイギリスGPでクーパーからF1デビュー。1956年にマセラティから1戦のみ参戦した後、再びクーパーから参加し、1959年にクーパーでチャンピオンに輝く。1960年も連覇した。1961年にはブラバムチームを結成し、オーナー兼ドライバーとして活躍。1966年にエンジンが3000ccとなると、エンジンの選択が的中し、第3戦でオーナー自身初の勝利を遂げる。同シーズンはそこから快進撃を見せ、ドライバーとしてチャンピオンとなった。翌年はチームメイトのデニス・ハルムがチャンピオンとなる。1970年にF1を引退。引退後もレースと関わっていく。1992年にブラバムチームは消滅した。イギリス王室から『サー』の称号を授かっている。

ジャン・アレジ

1964年6月11日フランス出身。17歳でカートレースをはじめて、1987年にフランスF3選手権のチャンピオンとなり国際F3000選手権にステップアップ。1989年にF3000エディ・ジョーダン・レーシング(EJR)に所属。その年にEJRのF1チームにスポット参戦し、デビューでいきなり4位入賞。1990年ティレルからフルタイムドライバーとして参戦。チームメイトは中嶋悟。開幕戦で2位、モナコGPでも2位に入る活躍を見せ、1991円はフェラーリに移籍。アランプロストのチームメイトとなる。しかしチームは低迷、アランプロストが解雇されるとフェラーリのエースとして重責がかかる。翌年もチームは低迷し、優勝からは遠ざかる。1993年、ゲルハルト・ベルガーとともにフェラーリの再建に尽くし、1995年にデビュー92戦目にして初優勝をあげる。1996年、ミハエルシューマッハとトレードされる形でベネトンへ移籍。結果はあげられず、その後は中堅チームを点々とする事となる。2001年ジョーダン所属時に、F1引退。

ジュゼッペ・ファリーナ

1906年10月30日-1966年6月30日
1950年に創始されたF1世界選手権の初代チャンピオン。10歳からモータースポーツに取り付かれ、15歳で自らレースに参加するようになる。その後、大学で経済学の博士号を取得するなどを経て1930年代から本格的にレースに参加し始めた。1950年から始まったF1の開幕戦イギリスGPにおいて、ポールポジションを獲得しレースで優勝(ポールトゥーウィン)を達成。その年は3勝をあげ、年間チャンピオンに輝いた。翌年はチームメイトであったファン・マヌエル・ファンジオが優勝しファリーナは一勝をあげるにとどまる。その後、勝利から遠ざかり、1955年にF1から引退した。1966年にF1感染に行く途中で事故死。

ナイジェル・マンセル

1953年8月8日イギリス生まれ。2005年国際モータースポーツ殿堂入り。労働者階級に生まれ、家を売ってレースを続けるなど苦労の末にチャンピオンになった。カートやイギリスF3を経て1980年にロータスからF1に参戦。ロータスには1984年まで在籍し、幾度か表彰台に上るもののGP勝利には結びつかず1985年にウィリアムズに移籍。その年のヨーロッパGPで初勝利をあげ、続く南アフリカGPでも優勝し頭角を現す。その翌年は最終戦までポイントトップであった。しかし最終戦はタイヤがバーストしリタイアとなり、惜しくも優勝を逃す事になる。1989年フェラーリに移籍するも1991年に再びウィリアムズへ。1992年のウィリアムズはハイテクマシン・FW14Bで序盤から圧倒的な強さを見せ、マンセルは開幕5連勝を飾るなど、連戦連勝を重ねついにチャンピオンに輝く。この年は14回のポールポジション、9勝の記録を残した。しかし、ウィリアムズとの契約のもつれからこの年でF1から引退し、CARTへ転進するも、1994年セナの事故死を受けスポット参戦。1995年もF1参戦するつもりであったがウィリアムズと契約にいたらずマクラーレンに参加。しかしマシンのポテンシャルが低い事などからモチベーションが下がり、シーズン途中で離脱。事実上引退した。

ニキ・ラウダ

1949年2月22日オーストリア出身。名門企業の御曹司として生まれ、無免許時代から車を乗り回し、免許獲得以降本格的にレーサーを志す。しかし、父親からは反対されるが、その反対を押し切ってレーサーになったため勘当され無一文となる。F2選手権等で活躍したあと、1971年にマーチからF1デビュー。当初の成績はチームの戦闘能力不足もあり、目立った成績をあげることが出来なかったが、BRMに所属していた1973年にチームメイトであったクレイレガツォーニがフェラーリに呼び戻されると、チームメイトとして推薦され、トップチームの1つであるフェラーリに1974年に移籍した。
移籍直後から好成績を挙げ、1975年は新型マシン・フェラーリ312Tの出来がよく、ドライバーズタイトルを獲得。その年フェラーリはコンストラクターズタイトルを獲得した。1976年はクラッシュによる大怪我があり、1ポイント差でタイトルを逃すものの、1977年に2度目のチャンピオンを獲得。1979年に引退を表明したが、1982年にマクラーレンから復帰。復帰後、1984年に3度目のドライバーズタイトルを獲得し、1985年に引退。

ネルソン・ピケ

1952年8月17日ブラジル生まれ。1981年・1983年・1987年と3度のドライバーズタイトルを獲得している。14歳からカートを始め、父親に隠れてレース活動を行うため、初期はピケットと誤った綴りで活動していた。ブラジルカート選手権などで活躍し、当時ブラジル人唯一のF1ワールドチャンピオンであったエマーソン・フィッティパルディの助力でヨーロッパF3に参戦し、ランキング3位に入る活躍を見せる。1978年にエンサインからF1デビュー。翌年ニキラウダのセカンドドライバーとしてブラバムに移籍。シーズン途中でラウダが引退した事でエースとなって活躍した。1980年に初優勝をあげるとその年は3勝を上げ2位。翌年初のチャンピオンに輝く。1982年はマシンの完成度が低く、不調に終わるも83戦には2度目のチャンピオン。1985、86年はマクラーレンポルシェの活躍などもあり低迷し
1986年にウィリアムズに移籍。ナイジェルマンセルとの確執があり、ピケが4勝、マンセルが5勝をあげ、コンストラクターズタイトルは獲得したものの、ドライバーズタイトルはアランプロストに奪われる。1987年は確実にポイントを積み重ねて3度目のチャンピオン。1988年ロータスに移籍するが、ロータスでは1勝もあげることが出来ず、1990年にベネトンへ移籍。ギャラを完全に出来高制という異例の契約で、シーズン2勝をあげた。翌年第5戦で優勝するものの、シーズン途中でチーム名とのモレノが解雇されるなどチームへの不信感がつのり、シートを喪失しF1からは引退した。

ファン・マヌエル・ファンジオ

1911年6月24日 - 1995年7月17日アルゼンチン出身。F1で5回のチャンピオンに輝き、ミハエルシューマッハに破られるまで46年間最多記録であった。
第2次世界大戦前は南米で行われていた長距離レースに参加していた。1940年と1941年にはアルゼンチンの国内選手権を制し、アルゼンチンのペロン政権の支援もあり1947年はヨーロッパのレースにも参加していた。1950年にF1が始まるとアルファロメオから参戦した。初年度がチームメイトのジュゼッペ・ファリーナにチャンピオンを譲るが、翌年はフェラーリの猛追を振り切り、チャンピオンとなる。1952年にクラッシュで頚椎を折り、一時は心臓も停止したが、1953年にマセラティから復帰。最終戦では2年間無敗だったフェラーリを破り、復活勝利を果たした。1954年にメルセデスベンツが参戦すると、移籍し、1955年にルマンでの事故が原因でメルセデスベンツが撤退するまで、12戦中8勝をあげる脅威の強さを見せた。1956年はフェラーリへ移籍、1957年はマセラティへ移籍するも、1954年~1957年まで4年連続でチャンピオンとなっている。1958年シーズン途中でF1からの引退を表明した。

フィル・ヒル

1927年4月20日アメリカ出身。
1958年マセラティからF1デビューするもすぐにフェラーリに移籍。1960年に初のポールポジションを獲得すると、決勝でも初優勝した。1961年は2勝をあげワールドチャンピオンとなるが、その後はパッとした成績はあげられず1964年にF1から引退。1966年に一戦のみ復帰するも、予選通過もならなかった。ワールドチャンピオンの経験があるものの、F1では通算で3勝しかしていない。

フェリペ・マッサ

1981年4月25日ブラジル出身。祖父がイタリアから移民。
8歳からカートをはじめる。1998年にカートから四輪レースに移り、2000年にはフォーミュラルノーのイタリア選手権、ユーロカップに参戦にチャンピオンとなる。F3000で圧倒的な成績を優勝し、2002年にザウバーからF1デビュー。デビュー2戦目で6位入賞を果たし、年間4ポイントをあげるがスピンなどのミスも目立った。2003年はベテランのフレンツェンにシートを奪われ、フェラーリでテストドライバーとして契約した。2004年はザウバーがフェラーリと密接な関係にあることなどから再びザウバーに復帰。シーズンで12ポイントをあげた。続く2005年もザウバーで安定感のある走りを見せ、2006年はフェラーリと契約し、ミハエルシューマッハのチームメイトとなった。第5戦で初の表彰台、第14戦で初のポールポジションと初優勝を飾る。最終ブラジル戦では再びポールトゥーウィンを決め、セナ以来のブラジル出身者によるブラジルGPの優勝となる。2006年はランキング3位、2007年は4位に入る活躍を見せ、フェラーリとの契約は2010年末までと延長した。

フェルナンド・アロンソ

フルネームはフェルナンド・アロンソ・ディアス。1981年7月29日スペイン生まれ。2005年に史上最年少で、ドライバーズチャンピオンを獲得するなど、最年少優勝、最年少表彰台、最年少ポールポジション、最年少完走などのF1に関する最年少記録をいくつも持っている。発破技士であった父のホセ・ルイスがアマチュアカートレーサーであったため、姉が興味を示さなかったカートに3歳の頃から乗り始める。家庭はカートレースに資金を出せるほど裕福ではなかったがアロンソがレースで勝利する事によりスポンサーを獲得、レースを続けられるようになる。2001年にはルノー契約の元ながらミナルディからF1デビュー。入賞はならなかったが、高いパフォーマンスを見せ注目される。2002年はルノーのフルタイムテストドライバーとして各地のコースで走り2003年にはレギュラードライバーとして契約。第2戦で史上最年少でポールポジションを獲得すると、そのレースは3位に入り最年少で表彰台に上り、第13戦ではミハエルシューマッハを周回遅れするほどの走りを見せ、最年少グランプリ優勝を達成した。2004年はフェラーリの圧倒的な活躍もあり、不振に終わるが、2005年には史上最年少でドライバーズタイトルを獲得し、続く2006年も連覇した。2007年はマクラーレンと契約し、順調にポイント獲得していったが、日本GPでリタイアし、3連覇を逃す。さらにフェラーリ・マクラーレン間のスパイ疑惑、予選時のハミルトンへの妨害など数々の問題が指摘され、2年の契約を残しマクラーレンからの離脱が発表された。

ミカ・ハッキネン

1968年9月28日フィンランド出身。
2度F1のドライバーズタイトルを獲得した。日本人受けする金髪碧眼で、F1雑誌のインタビューで1992年から引退する2001年まで10年連続で人気投票1位となった事がある。大変な恐妻家としても知られ、モニターを睨み付けるように見る妻イリヤの姿は有名。
5歳の頃からカートに乗り始め、1991年にロータスからF1デビュー。資金難で3年前から基本設計が変わらないマシンに乗りながらも第3戦で5位入賞を果たす。1992年チームが導入した「ロータス107」を駆り活躍を見せ、翌年はマクラーレンからオファーを受ける。しかい1993年のマクラーレンはアイルトンセナの残留が不確定であり、セナの離脱に賭けマクラーレンと契約したが、結局セナ残留しハッキネンはテストドライバーとしてシーズンを過ごす事になるが、シーズン途中レギュラードライバーであったアンドレッティがアメリカに帰国すると第14戦から実戦に復帰した。その年の日本GPで初の表彰台を飾る。その後3シーズンの間マクラーレンは不調にあえぐものの、着々とチームを強化し続け、1997年のヨーロッパGPで99戦目にして初の勝利を獲得した。
そして1998年に初のチャンピオンとなり、1999年も連続でドライバーズタイトルを獲得した。2000年はミハエルシューマッハと熾烈な争いを見せるもののファン・マヌエル・ファンジオ以来の3連覇はならなかった。2001年は開幕戦でクラッシュするなど不運に見舞われ、2002年は休養。そのままF1引退となった。

ミハエル・シューマッハ

1969年1月3日生まれ。ドイツ人ドライバーとして現在まででは唯一のドライバーズチャンピオン。チャンピオン獲得回数、チャンピオン連続獲得回数、優勝回数、ポールポジション回数などF1における数々の記録を塗り替えた史上最強とも言えるF1ドライバー。実弟のラルフ・シューマッハもF1ドライバーである。
幼い頃からカートに乗っていたが、家庭が経済的に豊かではなく他人が使い古したタイヤを使って走ったいたこともあった。周囲よりも劣る機材でも速い走りを見せ、後援者を獲得すると頭角を現した。1990年にドイツF3チャンピオンとなる。
1991年にF1にジョーダン・フォードからスポット参戦し、予選7位の結果を出す。この成果を認められ、次戦以降ベネトンのレギュラーシートに座る。1992年にF1初勝利を挙げるが、フランスGPでアイルトンセナに接触しリタイアに追い込むなど、荒っぽさが目立った。1994年、1995年に2年連続でドライバーズタイトルを獲得する。しかいいずれの年も接触により処分をうけるなどスポーツマンシップにかける行為が見られた。1996年にはフェラーリに移籍。1999年はドライバーズタイトルは逃すもののフェラーリとしては1993年以来のコンストラクターズタイトル獲得に大きく貢献し、2000~2004年にかけて5年連続でドライバーズタイトルを獲得すると言う記録を打ち立てる。2000年のドライバーズタイトルは、フェラーリ所属のドライバーとしては1979年以来であった。2005年は不調が続き、シーズン1勝しか挙げられず、チャンピオンの座をフェルナンドアロンソに譲ってしまう。2006年シーズンはアイルトンセナの持つ、最多ポールポジションを塗り替えるなどの活躍を見せたが、チャンピオンには届かず、シーズン途中での発表の通り2006年シーズンを持って引退した。

ヤーノ・トゥルーリ

1974年7月13日イタリア生まれ。幼い頃からカートにのり、1996年にドイツF3選手権チャンピオンとなり、1997年にミナルディからF1デビュー。このときのチームメイトは片山右京。ミナルディから7戦出場後、プロストから参戦。チームオーナーであるアランプロストに惚れ込まれ、1998年からレギュラーシートに座り、戦闘力の低いマシンで苦戦するものの1999年ヨーロッパGPで2位に入り初の表彰台。2000年ジョーダンに移籍するが、信頼性の低いマシンに悩まされ活躍は出来ず、2002年にルノーへ移籍。2003年は33ポイントあげ、4年ぶりの表彰台、2004年は初優勝をとげるなど活躍するが、チームとの関係があったするにつれ成績も降下、シーズン途中でトヨタへ移籍することとなる。2005年はラルフシューマッハとともにコンストラクターズランキング4位に入るほどの活躍を見せる。トヨタの契約は2009年まで延長されている。

ラルフ・シューマッハ

1975年6月30日ドイツ出身。ミハエルシューマッハの実弟。フォーミュラニッポンの初代チャンピオン。カートなどを経て1994年にドイツF3に参戦し、シーズン3位に食い込み注目を集める。翌年はシリーズは2位で終えるもののマカオGPで優勝する。1996年はフォーミュラニッポンに参戦し、3勝をあげ優勝し、1997年にジョーダンからF1デビュー。デビュー3戦で表彰台にあがるものの、荒さが目立ち、17戦中10戦リタイアする。1998年は荒さはあったものの、対応力を見せ第13戦でチームメイトのデイモンヒルと1-2フィニッシュをとげる。1999年は名門ウィリアムズに移籍し、年間35ポイントをあげて6位。2001年シーズンに移籍3年目にして初のF1優勝をとげ、シーズンで3章をあげ、ドライバーズポイントは4位に食い込む。その後も勝利を挙げるが、今一歩チームメイトのモントーヤに及ばない状況が続き、2005年はその年から加入したトヨタに所属し、ウィリアムズを離れる事となった。2005年は第2戦でチーム初の入賞、ハンガリーGPでチーム初の表彰台と活躍。14戦でポイントを獲得した。2006年、2007年シーズンもトヨタに所属し、2008年は移籍することが決まっている。

ルイス・ハミルトン

1985年1月7日イギリス出身。F1初の黒人ドライバーとして知られているが、正確には混血である。8歳でカートをはじめ、10歳でイギリスカートチャンピオンになったのを皮切りにいくつかタイトルを獲得。1998年にマクラーレンと長期契約を結び、以後マクラーレンの援助を受けながらキャリアを重ねる。2000年にはヨーロッパカートチャンピオンなど、国際タイトルを総なめにし、カートを離れる。2001年からフォーミュラへ参戦し、F3、GP2などのタイトルを獲得し、2007年にマクラーレンからF1デビュー。チームメイトは前年チャンピオンのフェルナンドアロンソ。開幕戦から3位に入り、第6戦で優勝しその後も9戦連続で表彰台に上がる。第16戦はリタイアするものの、第16戦終了時点でドライバーズポイントは1位。史上初のルーキーでチャンピオンかと思われたら、第17戦は7位に終わり、ライコネンに逆転を許してしまい、チャンピオンは逃してしまった。

ルーベンス・バリチェロ

1972年5月23日ブラジル出身。
2007年終了時点で253戦に出場しているベテランドライバー。この記録は史上2位の出場記録。F1で早い時期から実力を見せていたものの初優勝は125戦目と史上最も遅い記録である。1981年からカートをはじめブラジル国内で数々のタイトルを取り、1989年からはフォーミュラにステップアップ。1993年に20歳でジョーダンからF1デビュー。初年は日本GP5位での2ポイントに留まったが、実力を見せる。翌年第2戦で初の表彰台に上るが、悪魔のグランプリと呼ばれたサンマリノGPでクラッシュ。鼻骨を骨折する大怪我を負う。その年は年間6位で終えるものの、チーム力は次第に定価していった。1995年、1996年も変わらない成績を残すもののチームオーナーと折り合いが悪くなり、スチュワートグランプリに移籍。安定した走りを見せるものの、スポットライトが当たる事は少なかった。2000年はシューマッハのチームメイトとしてフェラーリに移籍。この年第11戦に120戦を超えて初優勝をした。続く2001年はドライバーズポイントで3位、2002年は4勝をあげて2位に入るなど、表彰台の常連となった。しかしいずれの年もシューマッハのサポート役に徹し、シューマッハを抜く事はせず、2002年第6戦ではトップで走っていたもののチェッカーフラッグ直前に、2位のシューマッハに1位を譲っている。このことでファンからはブーイングを受け、禁止されている表彰台では中央の座をバリチェロに譲ったことで、フェラーリ、シューマッハ、バリチェロは合わせて100万ドルの罰金を受けている。その後、同年はチームオーダーは無かったもののアメリカGPではシューマッハからバリチェロが1位を譲られるなどの動きがあり、2003年はチームオーダーは禁止される事態となった。その後も忠実なセカンドドライバーであったが2005年モナコGPにてシューマッハから強引な追い抜きを仕掛けられるとこれからは対等に勝負すると明言し、BARホンダに移籍した。フェラーリ時代にシューマッハと1-2フィニッシュした回数は24回で、F1史上最多の組み合わせ。
2006年はマシンになれるのに時間がかかり、チームメイトのジェンソンバトンに差をつけられたが、中盤以降は調子を上げ、年間30ポイントを獲得した。2007年はマシンの状態が最悪、またピット戦略の稚拙さに泣かされノーポイントで終わってしまった。2008年はホンダに残留する事が決まり、F1最多出場の記録を塗り替えるのは確実と思われる。

佐藤琢磨

1977年1月28日東京都生まれ。
20歳からレースを始め、5年でF1のシートを獲得した。モータースポーツ以前は自転車競技を行っており、インターハイ制覇、大学選手権優勝などの経験がある。鈴鹿でF1を観戦してモータースポーツに強い憧れを抱きつづけ、ホンダがSRS-Fを設立する事を知ると、大学を休学し、カートを始める。その後わずか半年で選抜方法を変えさせてまで、SRS-Fに入学。スクール生はおろか講師をも上回る速さを見せ、首席で卒業。
1998年には全日本F3に参戦するも、シーズン途中で渡英。イギリスF3に参加。2001年には日本人初のイギリスF3チャンピオンとなり、2002年シーズンからジョーダンでフルタイムドライバーとしてデビュー。日本GPで5位入賞を果たすものの、ホンダが翌シーズン以降BARのみ搾るという方針を固めると、佐藤起用によるホンダからの支援が得られないと考えたチームは佐藤を放出。2003年シーズンは、BARホンダにリザーブ兼テストドライバーとして移籍。最終戦でチーム離脱が決まっていたジャック・ヴィルヌーヴがモチベーションを失いその代役として参戦。6位入賞を果たし、その年のコンストラクターズタイトル獲得に貢献した。2004年はBARのレギュラーシートを獲得しアメリカGPで3位フィニッシュを果たすが、年間を通して佐藤のマシンにトラブルが多くチーム名とのジェンソンバトンが85ポイントを獲得したが、佐藤は34ポイントにとどまった。2005年シーズンは、デビュー以来最低の成績に終わり、レース以外でもジェンソンバトンの残留、バリチェロの移籍など、翌シーズンはレギュラーシートを失う事が確定しており、サードドライバーとしての提案を受けるも佐藤はチームを離脱。2006年はスーパーアグリでファーストドライバーとなった。チームが新しく、車体も満足の行くものではないが、完走を果たすなどチームとマシンが安定して来ている事を示した。2007年も同チームにて参戦している。

中嶋悟

1953年2月23日愛知県出身。
日本人初のF1フルタイムドライバー。1973年に鈴鹿シルバーカップでレースデビュー。順調にキャリアを重ね、1978年に全日本F2選手権に参加しつつ、イギリスF3にスポット参戦する。1981年、1982年とF2選手権でシリーズチャンピオンとなり、1982年はヨーロッパF2選手権には参戦し、開幕戦で2位となるがその後は資金不足で振るわなかった。1984年から1986年まで全日本F2選手権を3連覇した。1984年からはホンダのF1テストドライバーを行っていた。1987年、34歳にして日本人初のフルタイムドライバーとしてロータス・ホンダからデビュー。1991年にF1から引退するまでに出走回数80回、予選最高位6位、決勝最高位4位、ファステストラップ1回、総獲得ポイント16点と言う成績を残した。ホンダやセイコーエプソンのバックアップもあり有力チームで参戦を続ける事が出来た。「雨のナカジマ」と呼ばれ、雨の日のレースを得意としており、ファステストラップを記録したレースも雨が降っていた。引退後は中嶋企画の監督として現場を率い、高木虎之助などのドライバーを輩出している。長男の中嶋一貴が2008年からウィリアムズのレギュラードライバーになり、親子2代でF1ドライバーとなった。

片山右京

1963年5月29日神奈川県生まれ。
パチンコ店店員やトラックドライバーなどの仕事をして資金を稼ぎ、1983年にFJ1600筑波シリーズでデビューを果たす。同年シリーズチャンピオンになり1985年は全日本F3選手権にて6位の成績を残す。その年フランスに渡り、フォーミュラルノーの国内選手権やフランスF3に参戦し、注目を集める。1988年から日本F3000に参戦し、当初は苦戦するものの1991年にチャンピオンに輝き、中嶋悟の次の日本人F1ドライバーとして期待される。1992年実力が認められ、ラルースからF1デビュー。翌年はヤマハのエンジンを積んだティレルに移籍するが、マシンバランスを欠いた車体で結果を残せずに終わる。1994年はニューマシン「ティレル202」を駆り、随所で速さを見せ、開幕戦で初ポイントを獲得。その後もサンマリノGPで5位、イギリスGPで6位と入賞し、通算5ポイントを獲得した。1995年、1996年はチームがミカ・サロよりに動いてしまった事や片山自身のトレーニングの失敗などもあり結果を出せずに終わる。1997年ミナルディに移籍するものの、競争力の無い車体で、闘志をそがれそのシーズンを持って引退した。F1引退後は日本でのレースに参加したり、タレント活動などを行っている。

鈴木亜久里

1960年9月8日東京都出身。1972年にカーとデビュー。多少強引とも言われるやり方で、カートで好成績を挙げる。1979年から全日本F3に参戦するが、成績は上がらず8年間F3にとどまる。1987年にF3000に参戦。大口スポンサーを掴んだ事と、ヤマハの強力なエンジンを得たことで、1987年は2位、1988年はチャンピオンとなる。1989年からのF1デビューは決まっていたが、1988年の日本GPで思わぬスポット参戦を果たす。しかし、非力なマシンであり、そのレースは16位完走で終わる。1989年レギュラードライバーとしてザクスピード・ヤマハからデビュー。しかし、戦闘力の不足から全レースで予備予選敗退となる。1990年、亜久里の個人スポンサーでもあった伊東和夫がオーナーとなったラルースに移籍。まずまずの戦闘力のマシンを手にし、イギリスGP、スペインGPで6位入賞。日本GPではアジア人として始めて3位入賞表彰台に上る。1991年はベネトンへの移籍がほぼ決まっていたものの、スポンサーのバッティングの問題や伊東和夫に対しての義理などからラルースにとどまる。しかし、1990年代の日本の景気後退の影響を受け、エスポはラルースへの投資を縮小し、1991年は振るわない結果に終わる。1992年フットワークに移籍するものの、ここでも振るわずに1993年にはシートを失ってしまう。1994年はスポット参戦するにとどまり、1995年は無限エンジンを積むリジェから参戦しドイツGPで6位入賞を果たすが、マネー人グディレクターとの確執などがありわずか6戦のみ出走。日本GPでクラッシュ、大怪我をしF1から引退した。
1996年引退後にスーパーアグリカンパニーを設立し、全日本GT選手権やルマン24時間耐久に参戦し、自らはドライバーとしても乗り続ける。2005年には翌年からF1に参戦する事を発表し、ドライバーは日本人、エンジン、タイヤとも日本のメーカーを採用し、オールジャパンチームとして参戦している。

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